★ハインリヒを探せ!!@ベルリン★

その2:ベルリンの壁とハインリヒの個人史/前編



新ゼロ28歳、平ゼロ30歳。

原作ハインの年齢設定は不明ですが、おそらく30前後と推定されます。

ゼロナイ連載開始が1964年の7月19日。004であるアルベルト・ハインリヒが拉致・改造されたのはそれよ

り前、多分1963年から64年初頭にかけてではないでしょうか。



西ベルリンの封鎖が始まったのが、1961年8月12日。つまり、アルヒルの壁越えは、壁建立から間もない頃

であったことがわかります。世界中が大騒ぎだったでしょうから、石ノ森先生としては当時ほやほやの状勢を

作中に取り入れたのでしょう。

『世界まんがる記』によれば、石ノ森先生が009連載前の世界旅行でドイツに行かれたのはまさに壁建設直後の61年9月。

観光バスで東ベルリンに入り、当時西独だったハンブルグのハーゲンベック(Hagenbeck)動物園にも行かれたとのことです。

(情報提供:しんさま)ハゲベック動物園ってこれだったんですね〜〜〜(≧▽≦)



ポツダム広場の壁跡に刻まれたプレート







ハインリヒが産まれた1930年代のドイツは、ナチスが台頭し、第二次世界大戦(1939〜45)へと続く狂気

の時代でした。第一次大戦(1914〜18)の敗戦処理で多額の借金を負ってしまったため、ドイツはものすご

いインフレに見舞われていました。時のワイマール政権は、理想は高かったけどお金はなく、また経済文化政

治マルチに活躍していたユダヤ人への警戒心も高まっていました。決定的だったのが、1929年の世界恐慌。

国民の不満が、ナチスへの大量票となってしまいます。

ヒトラーが首相に就任したのが1933年。もし原作ハインが30歳だとしたら、まさにこの年に彼は産まれたの

かもしれません。彼の最初の記憶は、もしかすると破竹の勢いで戦果をとげたナチスドイツ軍の、凱旋パレー

ドだったのかも・・・。

しかし1943時には状勢が悪化、ベルリン空襲が始まります。終戦までに、街はすっかり瓦礫の山になって

しまいました。同時期、550万人ものユダヤ人が強制収容所に送られ、虐殺されています。


ゲシュタポ・SS本部があった場所。
「壁」の残骸にそって、『テロのトポグラフィー』が展示されています。




同じ「壁」を旧東側から見たところ。露出した鉄筋が恐い。



10歳くらいだったアルベルト少年も、きっと空襲で恐ろしい思いをしたり、映画『さよなら子供たち』みた

いに友人や知人がゲシュタポに捕えられるのを目にしたはず・・・(T_T)

いやもうまったく、ひどい時代だったわけです!







1945年、ドイツ無条件降伏。

ソ連(今のロシア)・アメリカ・イギリス・フランスの4ヶ国がドイツを分割して占領することになります。

ベルリンはソ連領のど真ん中。しかしここからがきな臭いところで、4ヶ国は首都ベルリンだけは特別にさ

らに分割して管理することに決めてしまいます。 ↓こんな感じです。




当時、ソ連は社会主義。米英仏は民主主義。意見が合うはずがありません。ゼロゼロナンバーに例えて言う

なら↓こんな感じです。




1948年(ハインリヒ15歳くらい?)には、東西が通貨問題でもめ、ソ連が西ベルリンの陸路を封鎖(壁は

まだない)。物資を輸送する西側の飛行機を、東側が攻撃するという事態に陥ります。

約1年間の封鎖の末、1949年ドイツは完全に分裂。ドイツ連邦共和国(東=社会主義)とドイツ民主共和国

(西=民主主義)が成立し、ベルリンにも東西2つの政権が立ちます。西ベルリンは東ドイツのど真ん中で

孤立し、東西にらみ合いの矢面に立つことになってしまうのでした。



約10年間、東と西は激しく牽制し合います。しかしだんだんと生活水準の格差は大きくなり、東ドイツ国民

が西ベルリンへどんどん脱出し始めます。優秀な人材がリクルートされ、このままでは国が立ち行かなくな

るのでは? ・・・と東側の焦りは強まっていきます。

58年:ソ連のフルシチョフ書記長が、西側諸国にベルリン撤退を最後通告。

60年:西ベルリンの完全封鎖を恐れ、約20万人が西側へ逃亡。

61年:フルシチョフとケネディ米大統領の調停、失敗。







ベルリンの壁の建立が始まったのは、1961年8月12日の深夜のことだったそうです。

ハインリヒはおそらく20代後半でしょう。

警報が鳴り、夜中の2時頃から西ベルリンの境界線の封鎖が始まったとか。

まず有刺鉄線が張られ、歩哨が並んだそうです。そして最前列には東ドイツの戦車と予備軍、後ろにはソ連

軍が待機していました。電車や地下鉄は止められ、道路も封鎖されてしまいました。

朝になって警備が手薄な場所から人々が逃亡を始めると、有刺鉄線を巻き付けた柵と杭でバリケードが築か

れ、壕が掘られました。市民の抗議も無駄でした。



8月14日、東西境界線の中心にあるブランデンブルク門が封鎖されます。次にこの門が開くのは、 なんと

1989年12月22日。TVで東西ベルリン市民が壁によじ登り、歓喜する姿を目にされた方も多いのでは?

封鎖中のブランデンブルク門の姿は、町中で売られている絵ハガキで辿ることが出来ます。広い空間にぽつ

んと置かれた立派な門の前で、壁はぐるりと迂回しています。80年代半ばに訪れた知人によると、銃を持っ

た軍人がものものしく警備していて、門もとてもすすけていて、ものすごく殺風景でとても長居が出来るよ

うな雰囲気ではなかったとか・・・。




そしてこれ↓が今のブランデンブルク門。ホテルや土産物屋が間近に立ち並ぶ、観光のメッカです!!


旧東側より。もちろん後ろにはスタバが(^_^;)







ところで平ゼロの卓上カレンダー2004版、9月の絵柄がまさしく壁+アルヒルですよね?

この形状の壁は、実は4代目、80年代の初めに建て替えられたものだそうですよ。平ゼロハイン氏はコール

ドスリープから目覚めて、今もほんの一部残っている壁と再会しに出かけた・・・のかな??



ここで原作をひもとくと、レンガ壁の上に鉄棒がクロスされ、そこに有刺鉄線が巻き付けられているのが

わかります。またまた絵ハガキで確認すると、62〜64年半ばまで(64年冬の写真では有刺鉄線がなくなっ

て、柵と監視塔が設置されている)がほぼこの形状なんですよ〜〜〜!

うっわ〜なんかハインリヒがホントにこの絵ハガキの場所に居たよ〜な気がしちゃうな!(*^^*)

・・・ってこんなこと思うのは私だけっすかね;

いやきっとゼロナイファンなら思わず感動しちゃうはずダ!

 



こうしてドイツ、そしてベルリンは東西世界の対立の犠牲となって、政治的にも物理的にも分断されてしま

いました。愚かなことです・・・。



後編へ続く→→→




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